意志に属したい日記

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する(アラン)

「ファイト!」

「ファイト!」と声をかけるとき、かけた方の気持ちとしては「がんばれ」「応援しているぞ」ぐらいなのだろうけど、元をたどると「闘え!」ということだよなあと、実感することがある。

例えばAという人物から理不尽な扱いを受け、その被害を別の場で訴えたとする。その後に「ドドンマ、Aの悪口言ってたんだって?」と言われたとき。

悪口=悪く言うこと、なのだから「悪く」の範囲を広げれば(少なくとも良くは言っていないのだから)悪口ということになるのかもしれないけど、どうも納得がいかない。

被害者はこちらだったのに、なぜ加害者のような扱いを受けねばならないのか。被害者は黙って堪え忍ぶのが美徳とされるのか。だからセカンドレイプのような、被害者をさらに傷つける行為が横行するのでは――などということまで考えてしまう。

で、思ったのが、「悪口」と断罪してしまう人は「闘ったことがない人」なのではないか、ということ。あるいは「闘わずに生きてこられた人」というべきか。

理不尽な扱いを受けることもなく、したがって被害者になることもなければ被害を訴えた経験もなく、理不尽と闘う経験をしてこなかった人が、「相手に対する悪感情の発露」をすべて「悪口」と捉えてしまうのではないかと。

自分を守り、自分の大切なものを守るために闘ってきた人は、それらを脅かす存在に対して悪感情を持つのが当然だが、「守らずにいられた」、つまり「守られていた」人には、そのような存在が現実的に思えないのだろう。

だから単に相手を貶めるための悪感情の発露も、被害の訴えも一緒くたに「悪口」と捉えてしまうのではないか。

「いじめられる方にも問題がある」「火のない所に煙は立たぬ」などと無邪気に言えるのも、闘う必要がなかったから、あるいは意識的/無意識的に闘いを避けていたからなのだろう、などと思う。

だが、毒親育ちやDV、犯罪、いじめなどの被害者にとっては日々が理不尽との闘いだ。

闘ってきた人にとって闘いは現実の、日常のものなのだ。

 

闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう

ファイト! 

(「ファイト!」作詞:中島みゆき

 

「闘わない奴等」にわかってほしいとまでは思わない。

ただ、今も闘っている人がいるということを知って欲しい、と思う。