「ダメ」と「バカ」
「ダメ」と「バカ」は、否定する語という意味で同じくくりに捉えられることが多いような気がする。だが、個人的には「ダメ」のほうがより「ダメ」な語のように思う。
「ダメ」の原義は囲碁用語で「双方どちらの地にも属さず、 石を置いても自分の地とならない場所」のことをいう。そこから「効果がない」「役に立たない」ことを言うようになった。
いくら「駄目」に石を置いても何もならない。それは「希望がない」ということだ。重病人を前にした医師が「もうダメでしょう」と言ったらそれは「回復する希望がない」ということだ。
「希望がない(から諦めろ)」という「ダメ」をものすごくカジュアルに使う人が、意外に多いことに気づく。曰く「希望の職業に就きたいなら、たくさん勉強しなきゃダメ」「男に愛されるには控えめでなきゃダメ」「出世したかったら残業を断ってはダメ」等々。あくまで一例だが。
上記の例はこう言い換えた方がより正確だと思う。
「希望の職業に就きたいなら、たくさん勉強した方がより確率が上がる」
「男には、控えめな方が好まれる傾向にある」
「出世したいという希望を叶えるには、残業を断らない方がいい場合もある」
「ダメ」とは先にも書いたように「希望がない」わけだから、つまり上記の「ダメ」の例は「○○という望みを叶えるには△△しないと希望はないよ」と脅していることになるわけだ。
だが実際には△△しなくても○○という望みを叶えた例はたくさんある。ただ△△したほうが「より確率が上がる」「○○できる傾向がある」「そういう場合もある」ということがほとんどだ。
つまり「希望がない」わけではない。それなのになぜ「希望がない」と切り捨てるようなことを言うのか。
特に子どもの進路希望などで親や先生が「それなら△△しないとダメ」などと言っているのを聞く度に、こうやって若い人の希望を粉々にしていくのかな、などと思うのだ。
もう一つの「バカ」についてはこんな話を聞いた。
アニメ「ドラえもん」では初期から、「汚い言葉を使わない」と決めて「バカ」を禁じた。その結果どういう台詞に変わったか?
「のび太のくせに生意気な」である。
言葉狩りという生やさしいものではなく、明らかな改悪である。「バカ」という言葉さえ使わなければ、「のび太にはその資格はない、なぜならのび太であるから」という、のび太の人格そのものを否定する言葉を使ってもいいと広めてしまったのだから。
「バカ」には「愛すべき無鉄砲さ」のようなニュアンスが含まれるシチュエーションもある。人質となった戦友を、危険を顧みず助けた主人公に向かって「お前、バカだな」と戦友が言う。
そのとき「バカ」には「自分のことなど放っておけばお前だけは助かったのに、わざわざ助けに来てくれるなんて無鉄砲だ。だけど、その無鉄砲さによって、お前が自分のことを案じてくれているのを実感した。ありがとう」というような意が込められることに、異を唱える人がいるだろうか。
この場合の「お前、バカだな」は「汚い言葉」だろうか。
希望を塞ぐ「ダメ」と愛ゆえの「バカ」。
たった二文字の、カジュアルに使われがちな言葉にも、それぞれ魂は宿る。