「減るもんじゃなし」
「減るもんじゃなし」、セクハラを正当化するときによく使われるこの言葉に、嫌悪感のみならず、違和感を覚えていた。
「減るもんじゃなし」じゃない。確実に何かが減っている。でも何だろう? と思っていた。
その答えは思わぬところから得られた。
以下Amazonの紹介文より引用。
昭和初期――室蘭の遊郭に売られていった少女たちがいた。初潮も迎えぬ少女たちが辿りゆく地獄への道。「売春は、女性の最初の職業だった」と、誰が言った。そうしたのは――誰だ。
読んでいて大変つらい漫画だった。愛する人と添い遂げることも勿論できず、あるものは病に倒れ、あるものは処分品よろしく安値で買われ、身請けされても「普通の女」になることはできず、周囲からは見下され抵抗むなしく好き勝手に身体を扱われる。
何も持たない状態を表すのに「身一つで」「裸一貫」などという言葉があるように、「身体」は「何はなくとも最後まで自分が所有し、自分に従属し、自分の意志で動かせるもの」のはずだ。
事故等で肢体不自由になった人が、周囲から見ると時に驚くほど絶望するのも、「最後まで自分に従属するもの」であったはずの「身体」が自分の思うようにならないからではないか。
それは絶対的な信頼を寄せていた人に裏切られるに等しい絶望なのだ。
セクハラで、また売春という職業で「減る」のは「自分が所有するものの最後の砦としての身体、という感覚」だ。
全てを失い、あるいは取り上げられ、最後に残ったはずの身体さえも自分のものではなくなる。「自分にはほんとうに何もなくなる」という恐怖が自我を壊す。性産業従事者の精神疾患は有意に多いという話も聞くが、そこに根があるのかもしれない。
もちろん進んで売春する、つまり自分の身体を他人の好き勝手にさせたとしても「自分には○○がある」と思える「プロ」もいるだろう。古の娼婦は巫女のような存在だったと言うが、神と一体化するという感覚、神に自己を委ねることによって自我の崩壊という悲劇を防いでいたのかもしれない。
それでもやはり、「売春を女性の最初の職業にしたのは誰だ」の答えは「女性から全てを取り上げた者」だと思えて仕方ないのである。
800年前の自己責任論否定
おほかた不運なるものをば、所行、ことがら、よからぬやうに思ひ、賤しきものは振舞ごと、いたづらごとと思へり。これは無智の人のあることなり。
(ブログ筆者による超訳)
だいたい、運の悪い人のことはやることなすことその他のこと、良くないと思ってるし、身分の低い人の言動は意味ないと思ってる。これは無知の人あるあるだ。
800年前の説話集『十訓抄』第三「人倫を侮らざる事」序より。
不運で不遇な人、というだけなのに、「苦しいのは行いが良くないからでしょ」と切り捨てる自己責任論者は800年前にもいたらしい。
「僕ら自身はもう救われないので」
この言葉について昨日ブログを書いたはずなのだけれど、下書きにも残らずきれいに消えてしまっていた。謎。何らかの力が働いたのか。まさかね。こんな辺境のブログに。
近年で最もつらい言葉だった。自身は救われない、けれど「これからの未来のために」と、さらに傷が深まることを覚悟で告発した若者の勇気を、美談とたたえるだけでなくそれに応えなければならない。
「子どもを保護する立場の大人がそういうことをするのだと人間不信になった」という言葉とともに、この言葉は、弱い立場である子どもへの卑劣な行為を見逃してきた、知らないふりをしてきた、あるいは擁護してきた大人たちへ突きつけられた刃だ。
これ以上「もう救われない」と言わせてはいけない。
「ダメ」と「バカ」
「ダメ」と「バカ」は、否定する語という意味で同じくくりに捉えられることが多いような気がする。だが、個人的には「ダメ」のほうがより「ダメ」な語のように思う。
「ダメ」の原義は囲碁用語で「双方どちらの地にも属さず、 石を置いても自分の地とならない場所」のことをいう。そこから「効果がない」「役に立たない」ことを言うようになった。
いくら「駄目」に石を置いても何もならない。それは「希望がない」ということだ。重病人を前にした医師が「もうダメでしょう」と言ったらそれは「回復する希望がない」ということだ。
「希望がない(から諦めろ)」という「ダメ」をものすごくカジュアルに使う人が、意外に多いことに気づく。曰く「希望の職業に就きたいなら、たくさん勉強しなきゃダメ」「男に愛されるには控えめでなきゃダメ」「出世したかったら残業を断ってはダメ」等々。あくまで一例だが。
上記の例はこう言い換えた方がより正確だと思う。
「希望の職業に就きたいなら、たくさん勉強した方がより確率が上がる」
「男には、控えめな方が好まれる傾向にある」
「出世したいという希望を叶えるには、残業を断らない方がいい場合もある」
「ダメ」とは先にも書いたように「希望がない」わけだから、つまり上記の「ダメ」の例は「○○という望みを叶えるには△△しないと希望はないよ」と脅していることになるわけだ。
だが実際には△△しなくても○○という望みを叶えた例はたくさんある。ただ△△したほうが「より確率が上がる」「○○できる傾向がある」「そういう場合もある」ということがほとんどだ。
つまり「希望がない」わけではない。それなのになぜ「希望がない」と切り捨てるようなことを言うのか。
特に子どもの進路希望などで親や先生が「それなら△△しないとダメ」などと言っているのを聞く度に、こうやって若い人の希望を粉々にしていくのかな、などと思うのだ。
もう一つの「バカ」についてはこんな話を聞いた。
アニメ「ドラえもん」では初期から、「汚い言葉を使わない」と決めて「バカ」を禁じた。その結果どういう台詞に変わったか?
「のび太のくせに生意気な」である。
言葉狩りという生やさしいものではなく、明らかな改悪である。「バカ」という言葉さえ使わなければ、「のび太にはその資格はない、なぜならのび太であるから」という、のび太の人格そのものを否定する言葉を使ってもいいと広めてしまったのだから。
「バカ」には「愛すべき無鉄砲さ」のようなニュアンスが含まれるシチュエーションもある。人質となった戦友を、危険を顧みず助けた主人公に向かって「お前、バカだな」と戦友が言う。
そのとき「バカ」には「自分のことなど放っておけばお前だけは助かったのに、わざわざ助けに来てくれるなんて無鉄砲だ。だけど、その無鉄砲さによって、お前が自分のことを案じてくれているのを実感した。ありがとう」というような意が込められることに、異を唱える人がいるだろうか。
この場合の「お前、バカだな」は「汚い言葉」だろうか。
希望を塞ぐ「ダメ」と愛ゆえの「バカ」。
たった二文字の、カジュアルに使われがちな言葉にも、それぞれ魂は宿る。
「ファイト!」
「ファイト!」と声をかけるとき、かけた方の気持ちとしては「がんばれ」「応援しているぞ」ぐらいなのだろうけど、元をたどると「闘え!」ということだよなあと、実感することがある。
例えばAという人物から理不尽な扱いを受け、その被害を別の場で訴えたとする。その後に「ドドンマ、Aの悪口言ってたんだって?」と言われたとき。
悪口=悪く言うこと、なのだから「悪く」の範囲を広げれば(少なくとも良くは言っていないのだから)悪口ということになるのかもしれないけど、どうも納得がいかない。
被害者はこちらだったのに、なぜ加害者のような扱いを受けねばならないのか。被害者は黙って堪え忍ぶのが美徳とされるのか。だからセカンドレイプのような、被害者をさらに傷つける行為が横行するのでは――などということまで考えてしまう。
で、思ったのが、「悪口」と断罪してしまう人は「闘ったことがない人」なのではないか、ということ。あるいは「闘わずに生きてこられた人」というべきか。
理不尽な扱いを受けることもなく、したがって被害者になることもなければ被害を訴えた経験もなく、理不尽と闘う経験をしてこなかった人が、「相手に対する悪感情の発露」をすべて「悪口」と捉えてしまうのではないかと。
自分を守り、自分の大切なものを守るために闘ってきた人は、それらを脅かす存在に対して悪感情を持つのが当然だが、「守らずにいられた」、つまり「守られていた」人には、そのような存在が現実的に思えないのだろう。
だから単に相手を貶めるための悪感情の発露も、被害の訴えも一緒くたに「悪口」と捉えてしまうのではないか。
「いじめられる方にも問題がある」「火のない所に煙は立たぬ」などと無邪気に言えるのも、闘う必要がなかったから、あるいは意識的/無意識的に闘いを避けていたからなのだろう、などと思う。
だが、毒親育ちやDV、犯罪、いじめなどの被害者にとっては日々が理不尽との闘いだ。
闘ってきた人にとって闘いは現実の、日常のものなのだ。
闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!
(「ファイト!」作詞:中島みゆき)
「闘わない奴等」にわかってほしいとまでは思わない。
ただ、今も闘っている人がいるということを知って欲しい、と思う。
2022/02/15 今日の愚問
ソースのこびりついたフライパンを洗うとき、そのまま洗えば水質汚染の原因になり、紙で拭き取ればゴミが増える。何が正解なんだ。